佐賀県ガイド

佐賀の歴史

 ざっと、ではありますが、佐賀県の元になった佐賀藩のあたりから、佐賀県の歴史をみていきましょう。
 豊臣秀吉による九州国分で、龍造寺氏の領下となった地域が、現在の佐賀県とほぼ同じような形です。佐賀は、実は江戸時代の初期から有明海の干拓を行っていて、農地を増やし石高を伸ばして行きます。また、有田焼やお茶などの特産品の保護にも力を入れていき発展していくことになりました。
 その後、有名な鍋島氏が佐賀藩主となります。沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死した後、後を継いだ龍造寺政家は病弱でした。そのため、義理の叔父でもあった鍋島直茂が実権を握り、政家は名ばかりの藩主だったのです。その上、豊臣秀吉の命で後に隠居させられ、嫡男の龍造寺高房が家督を相続するものの、鍋島氏はこの時に所領安堵が認められることになります。高房は名目のみの藩主という立場に打ちのめされ、自殺事件を起すまでに追い詰められます。このときには未遂で終わるのですが、その傷が悪化し死去、そのすぐ後に隠居させられていた政家も後を追うように亡くなってしまいます。有名な鍋島化け猫騒動は、高房が可愛がっていた猫が鍋島氏に復讐のために化けて出るという話がベースになっています。化け猫騒動のお話はいくつかパターンがあり、主人公や登場人物が異なる話もあるのですが、一貫しているのは鍋島氏に復讐しようとした、龍造寺(化け猫)ということ。ただ、一番有名な話では逆に鍋島が藩主で、龍造寺が家臣になっています。

 佐賀県が一躍日本の脚光を浴びるのは、この後です。長崎に近かったこともあり、当時の先端技術や考え方の柔軟な人物も多く、明治維新では多くの人物を輩出しています。この時に活躍したのが、佐賀の七賢人と呼ばれる、大隈重信、副島種臣、大木喬任、江藤新平、佐野常民、島義勇、鍋島直正です。
 実は幕末から明治維新の時代にかけて、佐賀藩は日本国内で最先端の科学技術を持っていました。これはもちろん必要あってのことで、アームストロング砲の砲身を鉄で作るためでした。佐賀藩がオランダで出版された製鉄技術の本を入手できる環境にあったことも大きな要因なのですが、和蘭辞典もグーグル翻訳もなく、またオランダ人から直接指導を受けることも出来ずに(鎖国中ですから)、それを作り上げたのは努力の賜物でありました。こうした功績も、明治維新後に佐賀藩出身者が重用された理由です。
 ただ、大正時代に入ると政治的な勢力を失い、明治16年に現在の佐賀県として成立するまでは何度かの統廃合が繰り返され、佐賀という名も消えてしまった時期があります。後に復県運動によって復活することになりますが、佐賀にとっては受難の時代もあったのです。太平洋戦争では、その面積の小ささもあり大きな都市がなかったため、大規模な空襲被害は少なく、終戦を迎えることになります。

↑ PAGE TOP